ステートメントStatement

2015.12.31

「撮影する」ということも、「銃撃する」ということも、同じ“shooting”であるということ。撮る(撃つ)ものと、撮られる(撃たれる)ものが、その不均衡性を超えて、不器用ながらも同じ地平に立つことは可能なのだろうか?

わたしは近年、ヴィデオを扱いながら、人々の身体と声の問題に関する作品を制作している。その中でわたしは、様々な立場の人々にインタビューなどの形式を借りてコミュニケーションを図ろうとする。 彼ら自身の言葉で語られる自らの職能やアイデンティティの問題が、そのヴィデオの持つ構造自体とリンクし、時に入れ子のような構造を示す。 その対話の中には、彼らに自分自身を再演してもらうような作為性が含まれていたりすることもある。

そこにはまぎれもない彼ら自身の言葉でありながらもどこか表面的に見える会話が生み出され、その現実と虚構性の差異は決定不能のまま空中に留め置かれることになる。 重要なのは、わたしと「彼/彼女」が同じ空間におり、わたしもまた「彼/彼女」のまなざしに射抜かれうる空間を作ることである。 わたしがカメラを持っている以上、わたしと「彼/彼女」らはけして対等な関係ではない。しかし、さまざまなインストラクションが張り巡らされた中で、彼らがわたしに対し何らかの優位性を持ちえるような無防備な余白は残されている。それはある場合においては、抜け穴のようなユーモアとして機能するのかもしれない。またわたしも、そのいびつな均衡が崩れる瞬間を息をひそめて待っているのである。 またそこでは、スクリーンを見つめる観者のまなざしが、わたし自身=作者による支配的なまなざしに強制的に代入され、またすぐにふっとそこから遠ざかったりと、主体が絶えず移り変わる。 そのように没入を阻みつづけるヴィデオは、「ヴィデオを観るわたし」という特権的な観客の身体自体を問い直す。

その人々との関係性をめぐる制作の中で、近年は、「身体」と「声」の関係性が抱える政治性の問題を扱っている。 たとえば、誰かの言葉を代わりに代弁するとき、それは明らかにわたしの言葉ではないはずだ。しかしそれは同時に明らかにわたしの口から出ている声である。どこまで私たちは自分たちの声を「自分のもの」として明確に意識できるものなのだろうか。

また、そこにはヴィデオデータというものがそもそも映像データと音声データの合わさったものであるという原理的な問題があり、そこには作為的に音声のみを引き剥がすことも、違った音声を当て込むことも可能になる。そのような編集行為にまつわる倫理性も、おそらく「彼/彼女」とわたしのコミュニケーション上の諸問題に大きく関係しているといえる。

We use the word ‘shooting’ in taking pictures or filming as same as ‘shooting’ by a gun. Beyond its disequilibrium, is it possible for the person who shoots to stand in the same ground with the person who is shot?
In my works, I use the video to represent the problems related to one’s body and voice. I try to communicate with various people by interviewing him/her. The words coming from him/her, which provoke their problem of occupation or identity they have, links with the structure of the video’s substance, and sometimes becomes like a nested loop. Some of the dialogues may have an artifact of replaying him/her. It can be said that this is an act of putting their voices into the complete self-image he/she has. The words are from his/her mouth without doubt, though it seems as if a superficial conversation is produced here. In those conversations, the difference between the reality and the fiction flows in the air without being settled. In these works, it is important that he/she is in the same space with me, and I produce the space which the gaze of he/she pierces me. As long as I have the camera, I cannot make an even relationship with him/her. Although in a place where various instructions exist, there is a little undefended space that can make him/her more predominant than me. I think that as a humor and tend to try to wait for that very moment, a time when the awkward balance is exposed. The audience’s gaze towards the screen will be replaced with my=author’s dominant gaze, and sometimes the gaze goes away. Here, the subject of the video changes constantly. The video, which refuses us to immerse into, questions us where the audience’s privileged body ‘who sees the video’ is.

Recently, I am interested in the theme of political nature which the ‘body’ and the ‘voice’ contain. For example, when I speak for another person, the words which come out from my mouth will not obviously be my words. Simultaneously, the words which come from my mouth are obviously my voice. How far can we be conscious about the voice is ‘mine’? The act of speaking in other persons words includes a political sense. The video has a fundamental problem that it is a compounded production of projection image and sound. Because of this, we are able to rip off the voice and put a different voice to it. In this case, the ethicality accompanied by the act of editing is assume to be the problem of communication between the person who shoots=me and the person who is shot=him/ her.

 
 
 

2012.4.3

わたしたちが過ごしているこの小さな取るに足らない日々が、既に何者かに与えられた台本だったとして、それを否定できる根拠がどこにあるのだろうとふと思うことがある。
と、さっきもこの言葉を入力したなと画面を眺めつつ、開きっぱなしのブラウザ画面をもう一度更新し、冷えた指先で膝の上に乗せたパソコンを打っている。
小腹が空いたけれど立ち上がる気が起きないのは、きっと低気圧のせいだと言い聞かせる。
外ではまるでこの日のためにしつらえたようにごうごうと風が唸り、窓はがたがたと揺れ、時たま雨というより水のかたまりがびしゃりと降りかかる。
この部屋の窓は全面曇りガラスで、外の景色は暗いばかりで全く見えない。
おそらく大嵐なのだ、ということしかこの部屋からはわからない。

映像がわたしを不安にさせるのは、それがあまりに出来すぎているからだ。
それはかつて現実だったかもしれない。しかしすでに現実そのものではない。
当然モニターの中の彼らとわたしたちが手をつなぐことはできないわけで、むしろその断絶によってわたしたちは一方的に彼らをまなざす安全な立場に身を置けるのだ。
わたしが引きずり出したいのはその均衡が揺らぐ瞬間、彼らがわたしたちを見返す瞬間であり、どの物語にも回収され得ない時間、回答不能のブラックボックスとして凍り付いた時間である。
彼らは背後にある可能性を内包しながらも、徹底的に口をつぐんだ表面でしかない。
そこまで打って、ブラウザを眺めると、youtubeにはすでにこの大嵐の動画が上がっていた。

今ここでわたしの部屋の窓をがたがたと叩き付けている暴風雨は、さっき姫路の民家の側溝を溢れさせ、木々をゆさゆさと揺すってきたらしかった。
どうやら今回の暴風雨は記録的なもののようで、あと一時間後くらいにピークを迎えるということだった。
それでも、わたしはこの大嵐の何を知り得ているというのだろう。
私はこの半透明な部屋の中で、あるいは半透明な画面の向こうで、この「大嵐」のドラマを見ているだけに過ぎないのだ。
小腹はあいかわらず空いている。
でも立ち上がる気が起きないのはきっと低気圧のせいだと言い聞かせる。
よく知った道を歩いていく人の傘が次々と風に飛ばされていくのをわたしは画面の中に見つける。

いつしか、わたしはどこかで聞いたような台詞を自分が綴っている事に気づく。
わたしたちが過ごしているこの小さな取るに足らない日々が、既に何者かに与えられた台本だったとして、それを否定できる根拠がどこにあるのだろう。