2012.4.3

わたしたちが過ごしているこの小さな取るに足らない日々が、既に何者かに与えられた台本だったとして、それを否定できる根拠がどこにあるのだろうとふと思うことがある。
と、さっきもこの言葉を入力したなと画面を眺めつつ、開きっぱなしのブラウザ画面をもう一度更新し、冷えた指先で膝の上に乗せたパソコンを打っている。
小腹が空いたけれど立ち上がる気が起きないのは、きっと低気圧のせいだと言い聞かせる。
外ではまるでこの日のためにしつらえたようにごうごうと風が唸り、窓はがたがたと揺れ、時たま雨というより水のかたまりがびしゃりと降りかかる。
この部屋の窓は全面曇りガラスで、外の景色は暗いばかりで全く見えない。
おそらく大嵐なのだ、ということしかこの部屋からはわからない。

 

映像がわたしを不安にさせるのは、それがあまりに出来すぎているからだ。
それはかつて現実だったかもしれない。しかしすでに現実そのものではない。
当然モニターの中の彼らとわたしたちが手をつなぐことはできないわけで、むしろその断絶によってわたしたちは一方的に彼らをまなざす安全な立場に身を置けるのだ。
わたしが引きずり出したいのはその均衡が揺らぐ瞬間、彼らがわたしたちを見返す瞬間であり、どの物語にも回収され得ない時間、回答不能のブラックボックスとして凍り付いた時間である。
彼らは背後にある可能性を内包しながらも、徹底的に口をつぐんだ表面でしかない。
そこまで打って、ブラウザを眺めると、youtubeにはすでにこの大嵐の動画が上がっていた。

今ここでわたしの部屋の窓をがたがたと叩き付けている暴風雨は、さっき姫路の民家の側溝を溢れさせ、木々をゆさゆさと揺すってきたらしかった。
どうやら今回の暴風雨は記録的なもののようで、あと一時間後くらいにピークを迎えるということだった。
それでも、わたしはこの大嵐の何を知り得ているというのだろう。
私はこの半透明な部屋の中で、あるいは半透明な画面の向こうで、この「大嵐」のドラマを見ているだけに過ぎないのだ。
小腹はあいかわらず空いている。
でも立ち上がる気が起きないのはきっと低気圧のせいだと言い聞かせる。
よく知った道を歩いていく人の傘が次々と風に飛ばされていくのをわたしは画面の中に見つける。

 

いつしか、わたしはどこかで聞いたような台詞を自分が綴っている事に気づく。
わたしたちが過ごしているこの小さな取るに足らない日々が、既に何者かに与えられた台本だったとして、それを否定できる根拠がどこにあるのだろう。